ウラジオストック伝道


1996年の9月5日から13日まで、副牧師と一緒に初めてウラジオストックへ伝道に行きました。愈々ロシア大陸への伝道です。

きっかけは、小樽へロシア人伝道に行った時に船員のタブンシーコフ・ワレリー兄弟に遇い、教会に連れてきて聖霊待望をし、洗礼を受けたことに由ります。ワレリー兄弟は英語が上手で、私たちがウラジオストックに伝道に行きたいと話をすると、それならビザの取得の手伝いをしましょうと言ってくれました。

そこでお祈りした上でお願いすると、ワレリー兄弟は役所を回って書類をまとめ、私たちの許に送って下さいました。これでウラジオストックに行く道が開けたとので感謝しました。監督村井スワ先生にお知らせをし、お祈りして頂き、早速、旅行社に行って手続きをしました。ルートは国内線で新潟へ全日空便で行き、新潟からアエロフロート航空でウラジオストックに飛び、ホテルはガスチーニッツア・ウラジオストックにとりました。 当時は、まだロシアに行く人は少なくて、航空運賃も高かったのですが、伝道に行ける喜びで一杯でした。

空港のターミナルに入り、入国手続きを済ませ、荷物を受け取り出口へ行くとワレリー兄弟が迎えてくれ、再会の喜びで固い握手を交わしました。そして自家用車でホテルに連れて行ってくれました。途中の景色や街並みを見て、ロシアに来たのだなと思いました。中心街は3階くらいのヨーロッパ風のビルが立ち並び、住宅街は5,6階建の旧ソビエト時代の国営アパートがずらりと建っていました。

      File0131.jpg  ウラジオストック空港

      File0088.jpg  ウラジオストック駅

ホテルに入って手続きをし、1週間分の宿泊代を前払いしたが、結構高額で短期はともかく長期の宿泊は無理かなと思いました。強行軍で来たのでお腹が空いてたまりません。時間も大分過ぎていてレストランがはどこにあるのかわからず、ワレリー兄弟が「水餃子ならあると言っています」と言うので頼みました。間もなく出てきたののは、壺のような形をした瀬戸物に文字通り水と十数個の丸い小さな餃子が入った単品でした。つけダレはありません。これをスプーンで掬って口に運ぶのです。 後日ワレリー兄弟の家に招かれて奥様が腕を振るった美味しいロシア料理を頂いたのですが、ウラジオストック伝道を思い出すごとに、最初に食べた「水餃子」のことが思い浮かびます。

翌6日は、95年7月に小樽で救われたアクベルジン・リュードミラ姉妹の家に招かれました。姉妹の神癒祈祷をしい、息子のデニス兄弟の聖霊待望をしました。その後姉妹は市内見物に行きましょうと港に案内してくれました。ホテルに戻ると92年10月に救われたアルカジー兄弟が尋ねてきました。これらの人たちには日本から訪問計画をはがきで知らせておいたのです。

3日目は安息日礼拝をホテルの部屋で行いました。ドミトリ兄弟が息子を連れてこられ、4人で礼拝をしたあと、自宅に招かれました。午後は、ホテルの近くのサクラ・モーリエで海岸伝道をし、二人の兄弟方に水と霊を施しました。帰り道でロシア語の聖書を買いました。

      File0130.jpg サクラ・モーリエ 

      File0123.jpg 洗礼式

4日目は、港の対岸へ湾岸沿いに行きました。行きはタクシーで、帰りはフェリーに乗りました。通勤に使われている大きな渡し船の感じです。(今はこれに代わって、立派な橋が架けられています)。舟を降りてバクザール(市場)やウラジオストック駅、郵便局などを回って、アエロフロートの支店で帰りの便の予約をしました。この時、窓口で何と言おうかと予めロシア語で文章を作っておいたのですが、いざとなるともたついて上手くロシア語が出てきません。するとすぐ後ろのロシア人が流暢な日本語で話しかけてきたのでびっくりしました。そして窓口の係り員に通訳をしてくれたのです。正に神様の助けだ!と思い感謝しました。スパシーバ!

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                    ウラジオストック港のビューポイントから
 
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                     対岸からのフェリー船上で

5日目は訪ねてくる人がいなくて、ホテルで祈っていました。伝道にはこういう日もあります。

6日目は、ナオトカに行く国道の途中にあるボリショイ・カーメンに行きました。ここから小樽に来ている船もあるのです。ホテルで運転手付きの車をチャーターし、田園風景を眺めながら走りました。1時間余でボリショイ・カーメンの市内に入り、着いた所は税関でした。

車を降りて歩いていると、中から婦人警官が現れ、署長室に連れて行かれました。不審者と思われたらしく、「どこから何の目的で来たのか」と問われ、パスポートとビザの提示を求めれました。どうやら書類上ここに来ることは許可されていないようでした。話が難しくなってきたので「そこにロシア人の運転手がいるから聞いてほしい」言いました。婦人警官と運転手が話し合って話が付いたようです。互いに「ダスビダーニア」(さようなら)と挨拶を交わしました。伝道することが許可されたのです。ハラショー(すばらしい)! 再び車に乗り、数隻の船が停泊している埠頭にいって伝道することができました。日帰りでウラジオストックに戻り、夜はアンドレー兄弟の家に行きました。

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            ボリショイ・カーメン市内

7日目はサクラ・モーリエで伝道し5人の兄弟が聖霊と洗礼を受け、感謝でした。その夜、ワレリー兄弟の家に招かれ、奥さんのターニア、お子さんのスビエータ、サーシャ、友人のビクトル兄弟、ラリーサ姉妹とお子さん方が集い、霊讃歌30番をロシア語(私訳)で歌い、お祈りをし、聖霊待望会をしました。ワレリー兄弟は「私の教会は、札幌です。朝晩ハレルヤとお祈りしています」と言いました。

そして8日目ワレリー兄弟が空港まで送ってくださり、ウラジオストック航空で新潟に戻り、一泊して帰宅しました。

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               ワレリー兄弟(右)ご一家と友人たち

次回は、ナオトカにも行きたいと思うことと、予め連絡を取ることが必要と思いました。



2015.06.17 / Top↑
 サハリン伝道 

小樽港での伝道が進むにつれて、実際に彼の地へ渡って伝道をしようという機運が起きてきました。

どこへ行こうか? 導かれたのは最も手近な所、北海道の北隣の「サハリン」でした。戦前、戦中まで「樺太」と呼んでいた日本の領土でした。多数の日本人が住んでいたのは周知の事実です。 今は、ロシア領になり、ペレストロイカ以降、日本にロシアの漁船が海産物を積んで来るようになりました。

         サハリン

第1回 の「サハリン伝道」は、副牧師二人によって、平成5年(1993年)8月4~8日に行なわれました。
J旅行社のツアーに参加して稚内から船便でコルサコフ(大泊)に渡り、ユジノサハリンスク(豊原)にホテルを取って伝道したのです。

この伝道で水と霊とのバプテスマを受けて救われたのは、男性12人、女性5人、計17人。 それに道央教会の信者であるK姉妹の親戚で、残留日本人の男性1人、女性1人、計2人が聖霊だけを受けました。(6年後に2人とも亡くなったので、K姉妹が身代わり洗礼を受けました。) 合わせて19人の救いがあったので、副牧師たちは喜んで帰り、私たちも皆主のお働きに感謝を致しました。

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               サハリンの玄関、コルサコフ港(大泊)

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              ユジノサハリンスク(豊原)で洗礼式

翌平成6年の 第2回 サハリン伝道は、副牧師1人が結婚して他所へ行ったので、此度は、もう1人の副牧師による単独での伝道となりました。期間は8月2~10日の9日間で、前年同様ユジノサハリンスクを中心に伝道し、西海岸の港ホルムスク(真岡)にも伝道をしました。そして小樽で救われた韓国系ロシア人のM姉妹に出会いましたが、姉妹は通訳を業としている人だったので大いに主に用いられたのです。 また前年ユジノサハリンスクで救われた子供たちも伝道に協力してくれました。 副牧師が荷物から離れて洗礼を施している間にカメラが置き引きに遭いましったが、子どもたちが目敏く犯人を目撃していたので警察に通報して取り戻してくれもしました。 この伝道では、男性37人、女性15人、合わせて52人が水と霊を受けて救われました。 またロシア正教の人も主イエス・キリストの名による真の洗礼を受けたのです。

更に次の年、平成7年8月1~11日に 第3回 サハリン伝道に副牧師が単身遣わされ、ユジノサハリンスク、コルサコフ、ホルムスクを巡って海や川やプールで洗礼式を行い、34人が救われました。(男性21人、女性9人、他に男女それぞれ2人が受霊した。)

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             第4回サハリン伝道参加者(トゥナイチャ湖で)

その後、しばらく中断しましたが、再び行こうという話が起きてく 第4回 サハリン伝道は、9年振りに平成16年6月30日~7月13日の2週間に亘って行われました。この時は、道央教会のT兄弟と、東京教会のN兄弟が参加し、副牧師と3人での伝道となりました。サハリンでは、第2回のとき通訳して下さった韓国系ロシア人のM姉妹も合流しました。毎日のように救いがなされ、 水と霊:男性7人、女性4人。聖霊のみ:男性4人、女性4人。洗礼のみ:男性2人、女性2人。合計23人でした。 T兄弟が記録を取り、N兄弟が写真を担当したので,立派な証集ができました。感謝です。ハレルヤ!

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                           第4回サハリン伝道

2015.05.12 / Top↑
 ロシア人伝道

1992年(平成4年)の春頃から、北海道に住む私たちにとって身近な隣国であるロシアの人たちのことが気になり始め、御霊によって祈らされていた。

その少し前からソビエト連邦では、政治体制の改革運動がおこった。ペレストロイカ(立て直し)である。1985年に共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが提唱し、実践したものである。そして、1991年にはソ連邦が解体し、ロシアをはじめ、15共和国家が出現した。

自由化の波が押し寄せたかのように、北海道の港に続々とロシアの船がやってきた。サハリンやウラジオストック、ナオトカ、更にはカムチャッカなどから、蟹やうに、木材を積んでやって来て、帰りには日本の中古車をこぼれんばかりに積んでいく民間船による貿易が始まった。

そういう人たちが来ていることは新聞、テレビで取り上げられ、しばしば耳にしていたのである。

事が始まったのは、こうである。

1992年の8月に、広島県因島の内海イエス之御霊教会で開かれた瀬戸内海大聖会に、道央教会から3名出席したのだが、この時参加したN姉妹に東京教会のある姉妹が「東京では、外国から来た船員さん方に伝道して、沢山救われていますよ。北海道でも小樽の港などにロシアの船員さん方がきていると思いますが、伝道していますか」と尋ねられたので、「していません」と答えると、「伝道したら良いですよ」と言われたというのである。
 
これで、火が付いた。帰ってきてから「うちの教会でも伝道しましょう」ということになった。でもロシア語は全く分からないし、どこから手をつけたら良いかもわからない。

すると、旭川から高速バスで教会に通っていたS姉妹が、これを聞き、旭川駅前の書店でロシア語の辞典を見つけて買ってきた。これを元にして、キリスト、神、教会、洗礼、聖霊、救いなど、伝道に関係する単語を選び出し、発音など分からないので、ロシア人にその文字を読んでもらうことにして、8月31日に副牧師2人と信者2人が1台の車に乗って小樽港に出かけたのである。

港に到着して、埠頭にいるロシア人に声をかけ、辞典を開いてその文字を見せると、読んで「ダー」(いいよ)と洗礼を受ける意志表示をしてくれた。その数6人であった。車は1台きりなので、タクシーを呼び、小樽の地理に詳しい運転手に、洗礼ができる海に連れて行ってくれるように頼むと、東小樽の海岸へ乗せて行ってくれた。そこは、海水浴ができるところであった。その日、ハバロフスク州のソビエッカヤ・ガーバニーから来たタビチヤ号の機関長始め6名の船員が、小樽でのロシア人伝道の初穂として水と霊のバプテスマを受けたのである。

伝道に行った4人は大喜びで帰ってきて、翌日も行くことになった。辞典の文字を綴り合せ「海へ行って洗礼を受けませんか」と短い文章にして紙に書き、これを見せて読んでもらうことにして、車2台で4人で出かけていった。すると、神様が働いてくださり、サハリンのポロナイスクや沿海州のナホトカから来た船員方が21人救われた。船長自らマイクを持って船内放送(洗礼を受けるように勧めてくれたのであろう)をすると、中からぞろぞろと船員方が出てきたので、海へ連れて行き、そこで聖霊待望会をし、主イエス・キリストの名によって洗礼をしたのであった。

こうして、小樽港に行くたびに水と霊が行われ、9月には100名ものロシア人が救いに与り、更に11月、12月と冬に向かう小樽の海岸で水と霊の全き救いが行われ、この年は46回、252名がイエス様によって救われたのである。

つたないロシア語の文書も、ロシアの船員方が 「ここは、こう書いたら良いよ」 という風に手直しをしてくださり、今も用いられている。

スパシーバ ありがとう!

「全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣伝へよ。信じてバプテスマを受くる者は救はるべし」 マルコ伝16:15、16

        File0114.jpg 小樽でロシア船

       File0110.jpg 小樽・祝津港

 
2015.03.24 / Top↑
 指導者 主 御 自 身


札幌教会での大聖会時代に私に与えられたお手伝いの仕事は、事務であった。

主催教会の牧師の依頼により最初に取り掛るのは案内状の作成である。 その年の大聖会に与えられた大聖会の御言葉を書き記す。 例年レイアウトは似通っていたが、時としてデザインを変えてみたりした。活字がほとんどだが、御言葉を筆字にしてみたこともある。

この案内状に必ず書き記す言葉があった。それは 「指導者 主 御 自 身」 である。

こうしてできた案内状を、主催教会が各教会に送り、返信を受けて出席人数を取りまとめると開催日は近い。その頃また知らせが来る。

大聖会の前日には看板立てである。家で 「北海道大聖会」 と大書した紙を持って教会に行き、枠に張り付けて、教会の玄関前に立てた。 それから次に主催教会の牧師から出席者全員の名簿を受けとり、胸につける名札作りをした、これはリボンテープを使い、牧師は黄色、信者は白に色分けし、全部筆で書いた。 これを終えると後は、次々見える先生方や信者方の出迎え、名札をお渡しし、接待をしたのである。

さて、その 「指導者 主 御 自 身」 であるが、大聖会の指導者は、監督でもなければ、主催教会の牧師でもない、主イエス・キリストご自身が 「指導者」 なのである。なんと素晴らしいことではないか。

イエス之御霊教会に於いては中心になるお方は主イエス・キリスト御一方のみであって、そのほか如何なる人も中心にはなり得ないのである。 正にモーセもなく、エリヤもなく、「彼ら目を挙げしに、イエス一人の他は誰も見えざりき」 と云うことである。 マタイ17:8

ただ秩序として、神がモーセを立ててイスラエルを導かれたように、今は神が教団に監督を立てて導かれる故に、そのご指導に従うべきである。

此のことを実感したのは、北海道大聖会の主催教会の牧師になったときであった。

北海道大聖会も、開始以来30回程お手伝いをしたのだが、手伝うのと主催するのとでは大違いだった。 主催というのは、聖霊の膏を注がれ、監督に指名されて行ものであり、水を汲みし僕どもは知れりで、神の働きをはっきり見せられるのである。

イエス・キリストの弟子たちは、主が為し給う奇蹟や不思議を見て驚き、畏れた。その同じ弟子たちが、イエス様の昇天後、主から権威と権能を与えられて奇蹟や徴を行った時に、改めて主が偕にいて御業を行っておられる事を実感したと思う。

大聖会の主催という経験をさせて頂き、イエス様が如何に厳かに御指導しておられるかを体得したことは、とても大きな宝となった。

一番最初に教えられたことは、「霊と肉」の違いであった。それを証しよう。恥は我がもの、栄光は主のものである。

初日の歓迎会が始まる前に、誰にピアノの御用をお願いしようと考えた。北海道大聖会なのだから、北海道の先生が良かろうと思ってO生にお願いをしておいた。ところが、直前になってS先生がやってきて「監督先生が私にピアノを弾くようにと言っておられるのですが、如何しょうか?」と問うて来られた。「あゝ、ピアノの御用はO先生にお願いしてありますから」と私は答え、S先生は下がっていった。

監督先生からはこのことについて何も言われずに聖会が始まり、ピアノの伴奏はO先生によって行われていった。 私の頭の中では気に留めることもなく、大聖会は1日目、2日目と進行していった。 ところがである・・・。

3日目の朝の聖会で、講壇の御用に立ったS牧師が、ピアノを弾いているO先生に向って「先生のピアノの弾き方は肉である。霊でなければならない」と言ったのである。私にはどこが霊で、どこが肉なのか良く分からなかったが、S牧師ははっきり聞き分けたのである。S牧師はキャリアがあって、霊讃歌に詳しい牧師であった。

するとO牧師が言った。「私には霊か肉か分かりません!」 そして互いに言葉のやりとりがあり、そのうちにO先生は感情を抑えられず、「私には弾けません!」 と言うなり、ピアノの蓋をぱたんと閉めて手を下ろしてしまったのである。 正に前代未聞のことが起こった。しかも神の教会で!大聖会の場で!その場にいた誰しもがあっけにとられ、凍りつくような空気が流れ、驚愕する出来事が起きたのである。

S牧師は、巧者であって、説得しつつその場を切り抜け、大聖会は続けられたのだが、私は、この間、こうなったのは私のせいだと自責の念に駆られていた。なぜなら、O先生を立てたのは外ならぬ私であったからである。その外に真実が分かる人と言えば、監督先生とピアノのA先生位であったと思う。

あの時、イエス様は、監督先生にA先生をピアノの御用に立てるように示されたのである。監督先生にはO先生は手伝いで疲れているだろうから、A先生を立てようと配慮があったと後で知った。 一方、私は監督の霊の念による指示を悟らず、従わず、地元という理由からO先生を立てようという肉の念があった。 私の肉の念が、O先生のピアノに表れたのだと私は思った。

霊眼が開かれる如く、神は大切なことを鈍き者にも教えて下さるのである。 こう教えられて大聖会の 「指導者 主 御 自 身」 という意味が良く分かったのである。


  平成3年 案内状


    
2015.02.20 / Top↑
 大聖会の準備

初代監督村井じゅん先生は、「聖会の目的」と題して、第1に聖霊降臨の為、第2に教会完成の為と述べておられます。(聖霊誌57号)。 この趣旨に従い、各地にできた教会の発展のために大聖会が開催されました。

初めて大聖会が行われた昭和十年代は、米と毛布を各自持参して参加したそうです。 北海道大聖会は昭和34年から始まり、私は第1回目から出席し、31回目まで主に事務方の仕事をして手伝いました。

当時の北海道大聖会の主催教会は札幌教会でしたが、側面から見ていて主催教会のご苦労が分かりました。 大勢の来客を迎えるのにはそれなりの準備が必要で、各教会宛に案内状を発送し、返信を待って出席者の人数を把握し、次に遠方からの先生方や聖徒方の宿泊を考え、教会や信者有志の家に割り振りし、夜具の用意をし、 4日間の会期の間の3度の食事のお世話は、姉妹方の仕事で、年に1回のことながら、食卓や、鍋・釜・食器・ヤカン・聖餐式のコップなどを揃えました。また、費用も莫大に要したので、主催教会のご苦労は、一口で言い表すことができません。

そういう中で、急に道央教会で北海道大聖会を行うようにと御用が与えられたので、どのようにしようかと考え、できる範囲で始めよと思いました。

その頃には、宿泊は殆どが各自でホテルや旅館を手配して来られるようになっていたので心配はいりませんでした。 あとは食事の問題ですが、仕出し屋に頼んで弁当を取り寄せるようにしました。それまでの慣例とは異なりますが、それ以外に方法がなかったのです。 これが最初で、そのあと他の大聖会でも弁当に切り替わっていったので口火を切った形になりました。

参加者は200名程、うち牧師は58名、道央教会からは72名が参加しました。

会堂と牧師館の間の通路にテント張りの受付を設けました。 また、食事の場所として、牧師館のすぐ隣に空き家があったので、そこを借りて食卓を並べて使わせてもらいました。 翌年もと思っていたら、そうは問屋が卸さず、解体して更地になってしまいました。でも100メートルほどの至近距離に「カデル影山」というアパートが空いていたので、そこを借りて食卓を配置しました。カデルと言うのは、北海道弁で”仲間に入れる” という意味があるので、大聖会にはぴったりだなと思いました。ここは、その後も大聖会毎に食事の場所として借りることができました。 そして最後は、現在の新会堂を建てる時に、仮会堂として使わせてもらいました。

こうして、2000年まで10回、北海道大聖会の主催を勤めさせていただき、感謝です。 振り返ってみると、正しく「大聖会の指導者は主ご自身」であると証することができます。 ハレルヤ!

 準備ができた
               会堂の内も外も準備が整い、皆様のお出でを待つばかり

 カデル影山で食卓をセットする
                      カデル影山で食卓の準備もできた

 聖餐式で司式される監督村井スワ先生とお手伝いをする筆者       大聖会に集った先生方と聖徒方
聖餐式で司式をされる監督村井スワ先生と補助役の筆者     集われた先生方、聖徒方


2015.01.22 / Top↑