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 指導者 主 御 自 身


札幌教会での大聖会時代に私に与えられたお手伝いの仕事は、事務であった。

主催教会の牧師の依頼により最初に取り掛るのは案内状の作成である。 その年の大聖会に与えられた大聖会の御言葉を書き記す。 例年レイアウトは似通っていたが、時としてデザインを変えてみたりした。活字がほとんどだが、御言葉を筆字にしてみたこともある。

この案内状に必ず書き記す言葉があった。それは 「指導者 主 御 自 身」 である。

こうしてできた案内状を、主催教会が各教会に送り、返信を受けて出席人数を取りまとめると開催日は近い。その頃また知らせが来る。

大聖会の前日には看板立てである。家で 「北海道大聖会」 と大書した紙を持って教会に行き、枠に張り付けて、教会の玄関前に立てた。 それから次に主催教会の牧師から出席者全員の名簿を受けとり、胸につける名札作りをした、これはリボンテープを使い、牧師は黄色、信者は白に色分けし、全部筆で書いた。 これを終えると後は、次々見える先生方や信者方の出迎え、名札をお渡しし、接待をしたのである。

さて、その 「指導者 主 御 自 身」 であるが、大聖会の指導者は、監督でもなければ、主催教会の牧師でもない、主イエス・キリストご自身が 「指導者」 なのである。なんと素晴らしいことではないか。

イエス之御霊教会に於いては中心になるお方は主イエス・キリスト御一方のみであって、そのほか如何なる人も中心にはなり得ないのである。 正にモーセもなく、エリヤもなく、「彼ら目を挙げしに、イエス一人の他は誰も見えざりき」 と云うことである。 マタイ17:8

ただ秩序として、神がモーセを立ててイスラエルを導かれたように、今は神が教団に監督を立てて導かれる故に、そのご指導に従うべきである。

此のことを実感したのは、北海道大聖会の主催教会の牧師になったときであった。

北海道大聖会も、開始以来30回程お手伝いをしたのだが、手伝うのと主催するのとでは大違いだった。 主催というのは、聖霊の膏を注がれ、監督に指名されて行ものであり、水を汲みし僕どもは知れりで、神の働きをはっきり見せられるのである。

イエス・キリストの弟子たちは、主が為し給う奇蹟や不思議を見て驚き、畏れた。その同じ弟子たちが、イエス様の昇天後、主から権威と権能を与えられて奇蹟や徴を行った時に、改めて主が偕にいて御業を行っておられる事を実感したと思う。

大聖会の主催という経験をさせて頂き、イエス様が如何に厳かに御指導しておられるかを体得したことは、とても大きな宝となった。

一番最初に教えられたことは、「霊と肉」の違いであった。それを証しよう。恥は我がもの、栄光は主のものである。

初日の歓迎会が始まる前に、誰にピアノの御用をお願いしようと考えた。北海道大聖会なのだから、北海道の先生が良かろうと思ってO生にお願いをしておいた。ところが、直前になってS先生がやってきて「監督先生が私にピアノを弾くようにと言っておられるのですが、如何しょうか?」と問うて来られた。「あゝ、ピアノの御用はO先生にお願いしてありますから」と私は答え、S先生は下がっていった。

監督先生からはこのことについて何も言われずに聖会が始まり、ピアノの伴奏はO先生によって行われていった。 私の頭の中では気に留めることもなく、大聖会は1日目、2日目と進行していった。 ところがである・・・。

3日目の朝の聖会で、講壇の御用に立ったS牧師が、ピアノを弾いているO先生に向って「先生のピアノの弾き方は肉である。霊でなければならない」と言ったのである。私にはどこが霊で、どこが肉なのか良く分からなかったが、S牧師ははっきり聞き分けたのである。S牧師はキャリアがあって、霊讃歌に詳しい牧師であった。

するとO牧師が言った。「私には霊か肉か分かりません!」 そして互いに言葉のやりとりがあり、そのうちにO先生は感情を抑えられず、「私には弾けません!」 と言うなり、ピアノの蓋をぱたんと閉めて手を下ろしてしまったのである。 正に前代未聞のことが起こった。しかも神の教会で!大聖会の場で!その場にいた誰しもがあっけにとられ、凍りつくような空気が流れ、驚愕する出来事が起きたのである。

S牧師は、巧者であって、説得しつつその場を切り抜け、大聖会は続けられたのだが、私は、この間、こうなったのは私のせいだと自責の念に駆られていた。なぜなら、O先生を立てたのは外ならぬ私であったからである。その外に真実が分かる人と言えば、監督先生とピアノのA先生位であったと思う。

あの時、イエス様は、監督先生にA先生をピアノの御用に立てるように示されたのである。監督先生にはO先生は手伝いで疲れているだろうから、A先生を立てようと配慮があったと後で知った。 一方、私は監督の霊の念による指示を悟らず、従わず、地元という理由からO先生を立てようという肉の念があった。 私の肉の念が、O先生のピアノに表れたのだと私は思った。

霊眼が開かれる如く、神は大切なことを鈍き者にも教えて下さるのである。 こう教えられて大聖会の 「指導者 主 御 自 身」 という意味が良く分かったのである。


  平成3年 案内状


    
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2015.02.20 / Top↑

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