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  会 堂 建 設

既報の如く会堂建設のプランができ、設計図も祈りの中に出来上がって、あとは資金が与えられるのを待つのみとなった。信者方も主の御霊に動かされて、会堂建設献金が次々献げられた。昭和60年(1985)は、そのために動かされた年と言ってよい。

春の雪解けを待って、マイホーム・センターを10社程回って見積もりを取るには取ったが、その時点で全て留められた。

8月下旬に T住宅の営業マンが二人訪ねてきた。「お宅で建築の予定はありませんか?」と言う。(ここもダメではないか)、と思いつつも、設計図を見せて話を交わした。すると、9月の九州大聖会から帰ってくるなり、T社の営業マンが課長を連れて来会した。課長曰く「当社は住宅ローン会社12社と提携しています。そのうち11社は教会には貸さないと言っていますが、ただ1社、JS社だけが良いと言ってくれました」ということであった。

その後、交渉で足踏みはあったものの、11月1日には、JS社の札幌支店長方が直々査定に訪れ、全てOKとなり、融資が決まり、即日「確定申請」をしたのだった。

起工式を行ったのは、翌日の11月2日のこと。T住宅が請負い、下請けの地元S社によって、工事が始まった。

寒冷地の北海道では、この時季は、工事の仕上げの時節なのだが、こちらは、これから始まるという具合である。庭の樹木を撤去し、6日に遣り方をし、18日に根掘り開始した。鉄筋コンクリートの土台の上に最初の柱を据え、上棟式をしたのが12月5日であった。ひたすら大雪が降らないことを祈りつつ、工事が進み、完成・引渡しを受けたのは暮れも押し迫った12月27日のことで、正に突貫工事であった。

この日、清算を終え、29日に講壇を運び据え、明けて新年、昭和61年1月1日から礼拝を開始したのである。ハレルヤ!

その地は汝の神エホバの顧みたまふ者にして 年の始めより年の終まで汝の神エホバの目常にその上にあり -申命記11:12- 

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2014.10.28 / Top↑
  母 の 預 言

母ヨシエ姉妹は、祈りの人であった。救われた当時、聖霊を受けたのだが異言があまり出なかった。それが唯一の悩みで、他の信者の方々のように豊かに異言が出るように、そして祈れるように牧師に何度も頼み、助祷して頂いていた。それでも異言は少なかったのだった。

その分というのか、大きな声でよく祈っていた。家で祈る祈り声は、簡素な造りの家の壁を透って、表にいても聞こえるほどだった。 それと、誰にでも何と言われようが、イエス様の証をして伝道していた姿を思い出す。

話は前後するのだが、会堂建設の機運が満ちて、みんなで祈り始めた頃も、一生懸命にお祈りしていた。  

私達は、どのような規模と価格で会堂を建てるべきかと思い考えていた。迷いもあった。案としては二通りあった。一つは、今の住宅を牧師館として生かし、庭に会堂を建てる案。もう一つは、家を取り壊し、庭と合わせた敷地に会堂を建てる案であった。それには、かなり費用がかさむだろう。ただ一点、息子の私には会堂を大きく建てて、親の部屋を設けて労に報いたい気持ちがあった。

こういう迷いの中で、母が病に倒れたのである。昭和60年1月、新年を迎え礼拝や聖会を終えた直後であった。胸が苦しいと訴えるので祈り、近くの開業医に連れて行った。診察の結果、家で暫く様子をみるようにということだった。2、3日母は臥せっていたのだが、急に座り直し、「教会は庭に建てましょう」と言い、父に向い「私たちの部屋は今のままで良いよね」と言ったのである。父も大きく頷き「そうだな!」と言った。この母の一言で会堂建設の方向が決まった。

母はその後、循環器の病院に入院し検査を受けた。心筋梗塞であった。2月11日、母は天に召され、私たちは母を天に送った。82歳であった。

告別式を終えた翌日、私の娘のところで初孫が生まれた。

           P1010630 碑文
           両親の墓碑に刻んだ聖書の聖言 筆者書



2014.10.03 / Top↑

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