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 妻 の こ と

幸子、妻の名だ。同じ1930年の生まれである。

結婚生活は、20年。二人三脚で走った。

主の救いに与ったのは、昭和31(1956)年8月の事。私たちの教会で開いた野外での「天幕伝道集会」に導かれてきたのだった。

すぐに教会に来て聖霊を受け、豊平川で洗礼を受けて、以後毎週教会に通うようになった。

結婚することになった経緯は、二人ともイエス様のために生きようと心を決めた一点だけである。周囲がそれを認めて良しとしてくれた。翌年の11月、私たちは神の導きによって結婚し、更に翌年長女が生まれた。

その年、昭和33年10月、私は大阪大聖会が開催された時に出席し、イエス之御霊教会教団監督の村井じゅん師により按手礼を受け、江別イエス之御霊教会の牧師に任命され、私たちは江別で開拓伝道を始めた。最初の教会は二戸建て六畳二間の借家であった。ほどなく長男、二女、ニ男が与えられて大所帯になった。

教会は、大人の信者もおられたが、近所の子どもたちを集め、うちの子も含めて子供会を開いた。イエス様の話をして、聖霊待望会をし、夏には川へ連れて行って洗礼式をした。

生活の方は、私が仕事をしたぐらいだから、いつもぎりぎりで、楽な思いをさせず済まなかったと思っている。

妻は、頭の良い人で、人生経験は私以上であったから、信者方の相談相手になり、「教会の奥さん」とか、子供たちからは「教会のおばさん」呼ばれて慕われていた。

近所の地主が、借地付きの建売住宅を建てて売りに出した時は、いち早く話を聞きつけ、「買って教会にしたらどうでしょうか?」と私に話しの水を向けてきたが、平屋で75万円、二階建てで150万円と聞いて、当時かなりの金額であったので、「そのようなお金がどこにあるのか」と、信仰が足らなくて取り下げにした。

独身時代に札幌に出てドレメ女学院で洋裁を習い、里に帰って洋裁教室を開き、それを元手に和裁を習ったので、教会と会館と二か所で内職に和裁教室を開いた。生徒たちと話をする中に信仰の話も出て、洗礼を受ける人たちが出てきた。

子どもたちが小学校に入ると、PTAの役職に就いて忙しく活動していた。それとコーラスグループに入って楽しくやっていた。その頃が、妻の人生の華だったような気がする。

「私は子供が中学生になるまで見ますから、その後はあなたが見てください」と常々言っていた。病弱だった私に比べ、妻は健康体に恵まれているのに妙なことを言うなと思ったが、「私には分かるの」と言った言葉通り、末の子が中2の春にがんのため天に召された。47歳だった。

翌年、昭和54年6月、江別の教会で監督村井スワ先生司式の許、祝福祭が行われた。

召された後、書き残した日記を見つけた。読んでいて感銘を受けたので、それを元にして主の証のために、その日までに自費出版で本を作ろうと思った。その時、来会された皆さんに差し上げたのが、「また会う日まで」と題する妻の信仰と生涯を綴った書である。

妻が生涯を主にささげた姿は、その後の私の伝道生涯を大きく変えてくれた。

   彼は死ぬれども信仰によりて今なほ語る -へブル書11章4節-

  
 
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2014.01.05 / Top↑

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