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祈 り 場

イエス寂しき処に退きて祈り給う。 ルカ5:16

安息日に町の門を出でて祈り場あらんと思はるる河のほとりに往き、 使徒行伝16:13  

教会は「祈りの家」である。教会で安息日礼拝が行われる。聖徒方は教会に集って牧師と共に神に祈りをささげる。祈ることによって、主は働き、数々の御業が為されていく。

江別の借家の教会も、祈りの家であった。最初の家は、木造2戸建てで、隣との壁はベニヤ板であったから、互いの話し声が聞こえた。当然祈りの声も隣には聞こえたはずである。

次の教会も借家であったが、1戸建てであった。ここでは誰にも憚ることなく祈ることができた。

それと、もう一カ所「祈り場」が与えられていた。近くの川の堤防である。

江別には、支笏湖に源を発する「千歳川」が流れていて(江別付近では「江別川」と呼ばれている)、市街地で大河「石狩川」に合流している。

私の「祈り場」は、合流点から1km半ほど上手の堤防であった。ここへ行く道は、市街地から離れた田園地帯を通って行く。春から秋にかけての昼下がり、此処にきて腰を下ろすと、目の前には滔々と流れる江別川と、対岸の木立と、その先に続く青空と、大自然の中に包まれて、天に在ます神に祈ることができた。

どれほど大きな声で祈っても、流れの音に溶け込んで、対岸の人には聞こえない場所である。思う存分神に祈ることができた。

ここで祈ったことは、

会堂建設のこと、土地も何もかも決まっていなかったので、将来の問題として実現を祈ったこと。

教会のみで自給自足できること、働きながらの伝道であったので、何物にも束縛されずに、牧会と伝道ができるように祈ったこと。家長として家族を養い、子供たちに教育を受ける環境を与える力を与えて下さるように祈った。

多くの人々が救われて、牧会ができること・・・であった。

そのどれもが当然のことだが、心からの切なる言葉の祈りと、異言による霊の祈りとを以って神の御許にささげた。実現するする日が速やかに来るように、忍耐しつつ、希望を持って祈り続けたのであった。

求めよ、さらば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり。 -ルカ11:9,10-

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2013.10.29 / Top↑

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