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二足の草鞋

人のあゆみはヱホバによりて定めらる そのゆく途をヱホバよろこびたまへり 縦(たと)ひその人たふるゝことありとも全くうちふせらるゝことなし ヱホバかれが手をたすけ支へたまへばなり われむかし年わかくして今おいたれど 義者(たゞしきもの)のすてられ 或はその裔の糧こひありくを見しことなし     ー詩篇37:23~25ー

イエス之御霊教会教団の政治・財政に関わる文言の中に「牧師は、全部無月給、教会はいかなる理由があっても、財的には、他にその援助を乞わない」という一文がある。

要するに、他のキリスト教会のような教団からの給料は、イエス之御霊教会においては、たとえ開拓伝道といえども始めっから皆無なのである。「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ」ーマタイ6:26ー で行こうというのだ。

主イエス・キリストと弟子たちの伝道費はどうだったかと聖書をみるに、ルカ伝8:2,3には、「・・・多くの女、ともなひゐて其の財産をもて彼らに事へたり」とあって、御婦人方の献金で賄われていたと記されている。

このように教会の為に重荷を負う信者が一人でも二人でもいれば、教会にとって大きな戦力になる。牧師は経済的な心配をせずに伝道に打ち込むことができる。右の手、左の手も欲しい。 然し、いなければどうするか?

私の場合、好みはしなかったが、伝道しながら内職に導かれた。動機は、什一献金をするようになったK兄弟が、会社の命令で江別を去ったこと。もう一つは、長女の初誕生日を迎えたのにお祝いの品を何も買ってやれず、父親としての不甲斐なさを感じたこと。

得手は信者の時に教会で覚えたガリ切であった。謄写印刷の原紙切りである。本当は言葉が悪いが、木偶の坊のように何もできない方が良いのかもしれない。だが、大工の子イエスに似ていて、牧師は何でも屋であり、色々な能力が与えられているものである。素人ながら看板も作れば、ペンキも塗る。書類も、印刷物も作る、設計もやれば、大工仕事もやる。お金を掛けないように何でもやる etc.

江別の駅前を歩いていると「S孔版」という印刷屋があったので、入って仕事があるかどうか聞いてみると、社長があるという言う。そして一枚書いてみてくれという。機材が無いのだがというと、全部貸してあげるから持って行って良いという。そんなんで、出来上がった原紙を持って行ったら合格して、次の仕事を回してくれた。

半年ばかり経った時、社長から 「人手が欲しいからうちに来てくれないか」 と話しがあった。 祈ったり、思案したりした後、監督の村井先生に手紙を書いて相談すると、次のような返信を頂いた。

「神の役者が仕事をすることは常道ではありませんが、人各々通る可き道あり、故に道開かれて仕事を為す場合は、働く可きか否かと心を悩まし考うることなく、何事にも捕われず 唯ハレルヤと前進して居れば 「後悟らん」 何事も 「よかりき」 と感謝するに至るのであります。・・・やがて万事に充ち溢るゝ時来らん。祈ります。・・・」

慈愛に満ちた温情溢れるお便りであった。先生は若造である私のことを思い見てくださった。今は、恵みの中に置かれて感謝極まりないが、年を重ねるにつれ「憐憫は審判にむかいて勝ち誇るなり」と村井先生の心の広さ、寛容の豊さを感ずるのである。

上記の次第で,S孔版に入ることになり、二足の草鞋を履くことになったのだが、問題はその比重である。社長には、教会を主体に考えているので、差支えない範囲の仕事に留める事と、時が来れば、辞する身であることを伝えたのだった。 昭和35年9月のことである。
  
                                      





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2013.03.21 / Top↑

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