上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
 江別伝道事始め

  ★ 天幕伝道集会

道草を食うようだが、江別イエス之御霊教会の発足を記す前に、先ずどのような主の導きによって江別で伝道を始めたのか、経緯をを記そうと思う。

UPCにいたころ、毎年夏になると天幕特別集会を開いていた。多くの人たちが集まり、福音を聞き救いに与っていた。

昭和32年(1957年)は、札幌市で一か所と、隣街である江別市で特別伝道集会が開かれることになった。発端は、江別在住の国鉄職員のI兄弟が札幌の集会に集ったことから、彼に江別市とはどんな所かを尋ね、興味を持ったので、江別で伝道会を開こうと導かれたのである。

江別駅から程近い所に、昭和28年の江別大火で街の大半が焼けた後で、復興を記念して造られた公園があった。そこを天幕集会を開く候補地とし、管理者の江別市役所に使用許可願いを提出すると承認されたので、車でテントを運び込み、講壇や椅子を並べ、チラシを配って時を待った。テント内に夜具を持ち込み自炊するのである。

伝道当日の夜が来て、太鼓を叩き、「ただ信ぜよ」の讃美を歌って街中を回りながら、時間と場所とを触れて歩いた。すると三々五々大人や子どもたちが集ってきた。当時はテレビもなければ何もない。無料でキリスト教の話しが聴けるというので、大勢人々が集まって来た。出入りは自由である。街のキリスト教会の牧師たちも新参者の教会が何を語るのだろうかと興味を持ってやってきた。
私たちは、その中で讃美し、福音を語った。

  ★ 山岡兄姉のこと

この伝道で一組の夫婦が救われた。山岡兄姉である。山岡兄は、国鉄に勤めていた方で、病を得て退職し、江別で中学校の教員をしている長男の許に夫婦で身を寄せていたのだった。

元いた倶知安に、プロテスタントの教会に熱心に通う長女がいて、イエス・キリストを信ずるように勧められていたのだが、元気なうちは神など信じないと言って聴く耳をもたなかったが、ここへきて肝臓を悪くし、胆のう炎から黄疸を患い、病院通いをしていたところへ「キリスト教特別伝道集会」のチラシを見、夫婦で2㌔はどの道程を歩いてきたのだった。

主は夫婦の心を開かせ、二人は聖霊を受け、石狩川で洗礼を受けた。江別伝道で種まきをし、刈入れた最初の実である。

写真はその時のもので、対岸の江別市側から「重兵衛渡し」という渡船で石狩川を横切り、遠浅の篠津側に着いた処である。右手に山岡兄、その左が山岡姉である。同時に三人の子どもたちも洗礼を受けたが、うち二人の父親は、伝道をした公園の向かいで神具・仏具を扱う店の主人であった。子どもの信仰は自由に認めてくれたのである。

                 やまおか
 
伝道集会も終わりに近づいた頃、私は夜空を見上げ、主に向かって「私はこの江別で伝道をしたい。」と祈ったのである。伝道会の後、山岡兄からN師に「江別で集会を開いて欲しい。就いてはこの人を」と私を指名した願い出があり、主の導きの中に江別伝道を受け持つようになった。こうして、UPC時代に1年間、江別イエス之御霊教会となって23年間の伝道生活が始まるのである。

集会所として江別商工会議所の一室を借りて、毎週日曜日の午前に子供会と大人の集会を開くようになった。午後は札幌へ戻って集会に出た。1年以上このようにして江別に通った。集う人数も少しづつ増えて行った。

山岡兄姉は、信仰に熱心で、集会には殆ど欠かさず通って来られたし、都合で休む場合は、必ず連絡してきた。その年の11月に行われた私たちの結婚式に際しては、喜んで出席して下さった。

だが山岡兄弟は、病が高じ、翌昭和33年10月29日、私が大阪でイエス之御霊教会の教役者として按手礼を受け、江別イエス之御霊教会の牧師に任命され、帰路についた日に天に召されたのである。これを霊に聡いあなたはどう解くか? 鍵は後年、山岡姉妹が私に話してくれたのである。 天界は不思議だ!

   ★ 通い牧師

さて、話しが前後するが、江別を担当することになった私は、初めて羊の群れを導くことになった。毎週札幌の家を出て、市電に乗り、札幌駅から列車に乗り換えて江別に行くのである。江別駅から集会所の江別商工会議所までは徒歩7,8分の距離である。

或る日、家を出るのが遅くなり、札幌駅で切符を買い、改札口に行った処で列車が発車してしまった。なんとしてでもあの列車に乗らなければ、遅刻する! 

私は、とっさに駅を飛び出し、1台のタクシーの運転手に訳を話し、今出た列車を追いかけるように頼んだ。当時の列車はSLだし、一方タクシーはと言うと、今のような自家用車は殆どなく、信号機もない時代だったから、すいすいと走った。

次の苗穂駅で追いつくかと思ったが無理で、「次の白石駅に行ってください」と頼んで、国鉄に平行する国道をひたすら走った。丁度白石駅に着いたところに列車がが入ってきた。運転手も一生懸命運転して、間に合って良かったという顔付きだ。
「幾らですか?」と私。
「〇百〇十円です。」
財布の中を見ると〇百円はあるが、〇十円はない。ああ何としたことか!
だが、〇十円分の市電の切符があるではないか。
「これでいいですか?」
「いいです!。とにかく急いで下さい!」

ああ、この運転手のことは何十年経った今でも忘れない。

タクシーを降りて、白石駅の駅舎に飛び込み、改札口に行ったが、駅員の姿はない。無人のホームに出た。向かい側のホームに停車中の江別行き列車は発車寸前だ。跨線橋を渡ってそのホームに行く時間はない。

見るとその列車の乗降口とは反対側のこちら向きの扉が開いている。私は、左右を確かめて線路に飛び降り、停車している列車の開いた乗降口にから飛び乗って車内に入った。

後から、駅員の「乗車券は,持っていますか~?」という叫ぶ声が聞こえた。
「持っていま~す!」と私も大声で答えた。
ボーッ!と汽笛が鳴って列車が発車した。
ああ、兎に角間に合ったのだ!感謝!感謝!

こうして、その日は遅刻せず、いつもの時間通りに集会を持つことができた。今のご時世ならあり得ない話だが、忘れられない本当の話だ。

       江別
              江別商工会議所    ⇐ 集会所 ⇒   入口に立つ私 

   ★ 額田兄姉のこと 

江別伝道が始ったので、戸別伝道をしようということになった。教会から有志3人で出かけ、地区を分担して文書を配り伝道した、その一人A兄が「救われそうな人がいる」と言ってその人を私に紹介してくれた。その方が額田兄弟だった。

江別駅から国道を1㌔ばかり行った一番町の長屋に奥さんと3人の男の子で住んでいた。まだ年齢が三十代だというのに失明して、国鉄を退職し、家でぶらぶらしていた。気持ちが荒れて酒を飲んでは、奥さんに当り散らしていた。新興宗教に入ったが良いことは全くないようだった。

初対面の時、私が自己紹介をすると、兄弟が「私の名前は何と読みますか?」と尋ねたので、表札を思いだし、「ヌカダさんと読むのでしょう?」と答えると、「さすがは牧師さんですね。大抵の人はガクダさんと読むんですよ」と言って、気に入ってくれた。家で聖霊待望会をして受霊した。それから、集会の案内をすると出席するようになった。

昭和33年1月の寒中に、水のバプテスマを受けると人柄が変わり、「人は私を見て、人生の途中から失明して可哀相な人だ」と言うが、イエス様を信じてからは「自分は最高に幸せ者だと思うようになった」と証するようになった。

間もなく札幌高等盲学校に入学し、点字を学び、鍼灸、按摩の試験に合格して資格を取ったので、長屋の近所に一軒家を見つけて「恵愛治療院」と名付けた看板を掲げて開業した。

だが、数年して病を得て昭和42年4月に45歳の若さで奥さんと子供たちを残して、天に召された。告別式は、大家さんの肝いりでお寺の本堂を借りてくれたので、そこで行った。教会は借家であったので、人が入りきれないためである。

奥さんも救われて教会に集って下さった。息子たちを立派に育てあげ、今は静かに余生を過ごしておられる。
  
             img007.jpg
                         額田兄の洗礼式 
               中央・額田兄 その右・額田姉 右端・山岡兄

スポンサーサイト
2012.10.25 / Top↑

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。