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  身代り洗礼   -その1

もし復活なくば、死人の爲にバプテスマを受くるもの何をなすか、死人の甦へること全くなくば、死人のためにバプテスマを受くるは何の爲ぞ。  -コリント前書15:29-  文語訳

そうでなければ、死者のために洗礼(バプテスマ)を受けるひとたちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼を受けるのですか。 -同 書- 新共同訳

初代キリスト教会に於いて、死者のために身代り洗礼が為されたことは、上記の聖言によって明らかである。

私と私の家族ともう一人のA兄弟は、北海道で身代り洗礼を受けた者の第一号とされた。

先ず口火を切ったA兄弟に敬意を払い、その証から始めよう。

兄弟は、早くに母親を亡くし、父親と姉弟とで暮らしていたが、姉たちが嫁ぎ、男ばかりの殺伐とした日々が続いき、愛に飢え渇いた日が続いたが、その最中に家の近くで開かれたキリスト教の伝道集会に集い、イエス・キリストの福音に出会い、水と霊のバプテスマを受けて救われた。その時は余りの嬉しさに感極まって男泣きに泣いたという。

教会に通ううちに、救われていない者は天国に行けず、黄泉の世界に落ちて永遠の審判の日を待つのみと聞き、それでは自分は救われて感謝であるが、亡くなった母親は不憫であると思い、何とか母親の霊魂が救われる道はないものかと、教会に来るたびに何度も何度も宣教師に救いの方法を尋ねたのだが、

『信じてバプテスマを受くる者は救はるべし、然れど信ぜぬ者は罪に定めらるべし』-マルコ伝16:16-

とある以上、この世でイエス様を信ずる機会を失った者は、どうしようもない、ただ神の憐みを願うのみだ、祈るだけだと聞かされ、また身代り洗礼というのが聖書にあるが、それを受けることはできないだろうかという問いにも、

『二・三人の証人の口に由りて、凡ての事の慥められん爲なり。』 -マタイ伝18:16-

とあるから、身わり洗礼についての聖書の言葉もコリント前書15:29の一か所では受け入れ難いと言ってかわされ、兄弟の気持ちはは釈然としないものがあった。

そうこうする中に半年近く経って、時がやってきた。

宣教師は、夫人が病に罹り召されたので、一時帰国することになり、留守役に村井先生の推薦でK師が派遣されてきた。

そこでA兄弟の同じ質問の矛先は、K師に向けられた。

K師は、世の教会の出身だが、暫くの間、イエス之御霊教会の聖書神学を学んだことがあり、身代り洗礼に就いて聞き知っていたが、その時はまだ確信を持っていなかったようである。

「今度、イエス之御霊教会の○○大聖会があるので、行って聞いてきましょう」との返事であった。

その結果、これは真理であると確信を持たれたので、実行することとなった。

1954年(昭和29年)9月16日、A兄弟は念願かなって母親の爲に、私と両親は、祖父母や兄弟方9名の霊のために、鴨々川において主イエス・キリストの御名によって身代り洗礼を受けたのである。

こうして神の奇しき導きの故に、身代り洗礼という素晴らしい死者の為の福音が実行れたのである。
 
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身代り洗礼に関わる聖書の言葉は、ペテろ前書3:18~22にも記されている。

・・・また霊にて往き、獄(ひとや)にある霊に宣伝へたまへり。これらの霊は昔ノアの時代に方舟(はこぶね)の備へらるるあひだ、寛容をもて神の待ち給へるとき、服はざりし者どもなり、・・・

十字架に架かられたイエス様は、復活されるまでの間、肉体は墓の中におられたが、霊にては捕われていた霊たちの所へ行って福音を宣教されたのである。

黄泉の世界に主によって福音が宣べ伝えられていて、そこにいる霊たちは救いを求めているのだ。

次回は私が体験し、また聞き知った身代わり洗礼の証を記そう。


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北海道で最初の身代り洗礼! 皆喜びで満たされた







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2012.02.02 / Top↑

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