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異 言

彼らみな聖霊に満され、御霊の宣べしむるままに異邦の言葉にて語りはじむ。  使徒行伝2:4

ペテロと共に來りし割礼ある信者は、異邦人にも聖霊のそそがれしに驚けり。そは彼らが異言をかたり、神を崇むるを聞きたるに因る。  同10:45,46

パウロ手を彼らの上に按きしとき、聖霊その上に臨みたれば、彼ら異言を語り、かつ預言せり。     同19:6

聖書には、上記の聖言のごとく、聖霊を受けた徴として異言を語ると記されている。
私の場合どうかと云うに、次のような次第で聖霊により異言を語るようになったので証をする。

始めて教会に行って聖霊を求めて祈った時は、はっきした異言は出なかった。
「兄弟、聖霊を受けましたよ」と言われたのだが、「ラララララ・・・」と舌が回らない状態であって、自分では良く分からなかった。

それから教会に通い続けたが、礼拝の中で祈っていても、余り変わらなかった。
牧師が「チーズ、チーズ」と言って祈っていたので、その真似をした時期があった。後で分かったのは「チーズ」ではなく、「Jesus」だということだった。

それはそれとして、人真似ではなく、神による本当の異言で祈りたいというのが私の願望であった。
「求めよ、さらば与えられん。・・まして天の父は求る者に聖霊を賜はざらんや」  ルカ伝11:9~11
と、主が約束されている通り、その日はやって来た。

救われて3ヶ月目の1952年12月14日の日曜日の事だが、ストーブのある8畳間の部屋に講壇を置いて、牧師を中心に4、5人集まって集会をしていた。
そこへK兄弟が、弟を連れて来たのである。

「今日は何かお祈りの問題がありますか?」との牧師の問いかけに、K兄弟の曰く、
「弟は、聖霊を受けたら異言を語るというけれど、ハレルヤ、ハレルヤ・・・と繰り返して言えば、舌が回らなくのは当たり前で、それは異言でも何でもないと言うのです。それでもう一度教会に行って祈ろうと連れて来たのです」とのこと。

そこで皆で一斉に祈り始めた。
すると、聖霊が弟さんの上に臨んで、はっきりした異言で滔々と祈り始めたが、もう止まらないのである。

間もなく、祈りの途中で弟さんはトイレに立った。
異言で祈りながら部屋を出て、縁側を伝って、トイレに行ったのだが、用を足している間も異言が止らずに聞こえてくるのである。
さすがに私たちも可笑しくなって、臍が茶を沸かすほどに「クックッ・・・」と笑いが込み上げてきた。

だが、その時である。ハッとし我に返り、
(自分も彼のように聖霊に満たされて、異言で祈りたい! 御霊に任せて祈ろう!)と切なる飢え渇きがきた。そこで、本腰をいれて祈ろうと思い、天を仰ぎ、主を求めて祈ったのである。

すると、顎ががくがく動き始め、上から火柱のようものなものがどっと私に降り、爆発したかのように、口から異言がどんどん出てきたのである。

私はじっとしておれず、椅子から降り、右手でその椅子をバンバン叩きながら祈らされた。聖霊に満たされる体験を始めてしたのである。

祈り終えてのち、牧師夫人が「兄弟は、今日異言で説教をしていましたね」と言われたのだが、凄い力が入っていた。それはさておき、始めて明確な聖霊体験をしたのである。

この時を境に、私は異言が沢山出るようになった。霊歌も歌わされ、祈りが楽しくなった。祈りの目的が異なる時には、異言も変わる経験もした。

異言が余り出ないという兄弟姉妹方には助祷してあげると、御霊の自由を得て多くの異言を語りだすのも見てきた。全てはイエス様の御業である。

そして、礼拝の時など、司会者の「さあ、ご一緒にお祈り致しましょう」という言葉で一斉に異言で祈り始めるのだが、御霊が導いて最高潮に達すると、霊歌が出てくる人もいるし、皆が主と深い霊の交わりをさせられて、本当に主と御霊で繋がっていて、一つになっている感がするのである。

祈りは、10分、15分、20分、それ以上続くことがあり、皆聖霊に満たされるのである。

その間、祈る人は自分の願いを込めて祈ることはもちろんであるが、
「我らは如何に祈るべきかを知らざれども。御霊みづから言ひ難き歎きをもて執成し給ふ」 ロマ書8:26
と記されている如く、御霊御自身が、私たちのために執成しの祈りをしてくださっているのである・

そして、祈りの最後は、誰も人が合図せずとも、潮が引くように自然に鎮まるので、御霊の取り扱いであることを知るのである。

聖書には聖霊降臨は2度あると預言している。即ち1度目はペンテコステの日に聖霊降臨があって初代キリスト教会が建設されたことであり、2度目は、今末の世においては聖書の預言により再び聖霊降臨が行われ、初代と同じ御霊の教会が出現したことである。これを雨に例えて、前と後の雨(ヤコブ4:7)と言い、秋の雨と春の雨(申命記11:14、ヨエル書2:23)と言っている。その中間の時代は乾期であって、聖霊が降らなっかったのである。

而して聖霊が降る時は、昔も今も変りなく、受霊の徴として皆異言を語っている。イエス・キリストは昨日も今日も永遠までも変わり給わないお方であるから、聖霊が降る時に異言を語ることも又不変である。

聖書には、三種類の異言が書かれている。先ず、聖霊を受けた徴としての異言。次に御霊によって祈る時の異言。もう一つは異言のメッセージであるが、これは解く者がいない場合は、預言をもってメッセージを語るのである。

コリント前書14章には、パウロが異言と預言の賜物に就いて書いている。パウロ自身は他の人よりも多くの異言を語ったとある(28節)。だが教会にては信者の前で異言を語ってもわからぬから、預言を語って教えたとある。然り、私たちは神の御前では、異言をもって祈り、兄弟姉妹の前では預言をもって語るのである。実に聖書そのままのことが為されている。

世の教会の人々の中には、コリント前書13:8にある「然れど預言は廃れ、異言は止み、知識もまた廃らん」の一句を以って、今や異言は不要になったという人もいるが、これは聖霊体験のない人が無知なるが故に言うことであって、事実は然らず。 やがて全き者の來らん時は全からぬもの廃らんとある如く、主イエス・キリストが御再臨されるその日には、直接主にお会いするわけであるから、異言も預言も不要となるという意味であって、御再臨前の現在は、教会時代であるから、異言あり、預言あり,なのである。 我らは異言をもって主と霊の交わりを為し、預言をもって兄弟姉妹に語ることが必要なのである。

されば、我ら 「御霊を熄すな、預言を蔑すな」  -テサロニケ前書5:19ー

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2012.01.04 / Top↑

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