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救われるまで

私は、札幌でごく普通の家庭に生まれた。

父は、若い時から札幌市の電気局(現在の交通局)に市電の運転手として勤め、早番・遅番、そして時々非番を繰り返えす毎日を過ごして、真面目に働いていた。途中、日支事変のため出征したが、退役後、引き続き勤務した。高齢になってからは、肺結核で療養する時期もあったが、癒されてのち後輩の指導・監督の仕事をして定年を迎えた。

昔の事とて、小学校に入ったのは10歳の時で、1年生と3年生の2カ年だけで終え、弟の子守りをしたり、親の手伝いや、出面で畑仕事をしたり、いろいろ苦労を重ねて成人した人である。後は、独学で学び、漢字混りの新聞なども読むようになった努力家だが、社会に出てから学歴不足のため他の人より出世が遅れ、それが給料に響いたり、色々つらい目に遭ったようで、我々子供たちは、常々勉強をするように言い聞かされていたものである。

一方、母はおとなし目の人で、5人の子供を育て(外に3人を亡くし)、いつも家に引きこもりがちだったが、終戦になり、食糧難とインフレに見舞われた時には、砂糖なしでも甘味のある得意の寿司弁当などを作って、闇市で働く人たちに売って家計を助けるというふうに、いざとなると積極的な面のある人柄であった。

私は、戸籍上は次男だが、兄が夭折した為に5人兄弟の一番上として育てられた。
当然、父も、私を跡取りだからしっかり教えようと力を入れた。
自分の家柄を守り続けるように、伝統的なことを身に付けるように、色々なことを教えられた。
その一つに宗教のことがある。

父は、先祖代々の仏教をやっていて、曹洞宗という禅宗の一派だが、さほど熱心というわけではなく、ごく普通の日本人的感覚でやっていた。家には、始め神棚だけあったが、私の弟が亡くなったあと、仏壇を買い込んできた。当時は中古の仏壇なども売られていた時代で、子供心に薄気味の悪いものが家に入ってきたなと思ったものである。
でも、私が深入りせずに済んだのは、後に救われる真の神、イエス様によって守られていたからだと思う。

           img029 a 円山小学校1年生の私

私の子供時代は、正に風雲急を告げる時代だった。支那事変から始まって、米・英を相手に第二次世界大戦に突入した。大国相手に所詮無理な戦争であったが、始めた以上負けるわけにはいかぬ。挙国一致で進もうと鼓舞され、日本は神国だ!いざという時には元寇の時のように神風が吹くと言って教育され、そのために神社参拝が盛んに行われた。
私のいた円山小学校は、札幌市内で札幌神社(北海道神宮)に一番近いこともあって、札幌の小学校の代表だとか理屈をつけて毎月一度は戦勝祈願の神社参拝があった。

だが、私には私なりに、別の祈りの問題があった。それは、健康になりたいという願望である。
幼い時から病気ばかりしてきた。風邪を引いたと言って学校を休み、お腹を壊したと言って休み、その都度勉強は遅れるし、それを取り戻すには時間がかかる。悪循環の繰り返しだった。

中でも、危機一髪だったのは、小学3年生の時に罹った急性肺炎である。40度以上の高熱が続き、幻影を見てうなされた。最後に高熱が体内から頭めがけて一気に駆け上がった。『あっ!』と私が悲鳴を上げると同時に、そばにいた母は氷袋を両手で握り、ぐっと私の頭に押し付けた。1,2分そうしておいてから、母は「ちょと待ってなさい」と言って、外へ飛んで出て、二軒隣の内科のA先生を呼んできた。先生は、聴診器を当てるなり『峠を越しましたね』と言った。母の機転で、私は危機を脱したのである。

その後、A先生は往診に来て、母に言った。
『息子さんは、生まれつき心臓が悪いようです。体に無理を掛けてはなりません。水に入ってはいけません。体操の時間は見学をするように』と。
それ以後、体操の時間は、少しは皆と一緒に動き回りたいのに、いつも見学となった。

このような次第で、いくら祈ってもこの神社の神様は私の祈りを聞いてはくれはしなかった。
そのうち、とうとう神風は吹かず、日本は敗戦となった。神社の前から人影が消えたのはこの頃である。

その一方で、近くの山を見上げては、どこかに本当の神様がいるのではないかと考えるようになった。

『 われ山にむかひて目をあぐ わが扶助(たすけ)はいづこよりきたるや わがたすけは天地をつくりたまへるエホバよりきたる 』    -詩篇121:1,2-

        *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

私には、子供の頃から一つの願望があった。それは、いつかキリスト教徒になりたいという願いであった。かといってキリスト教のどこが良いのか、その内容がどうなのかは全く知らないのにである。ただ何となく心が惹かれるのだった。

小学校に入る頃だっただろうか。クリスマスの朝、枕元に一冊の本がプレゼントとして置かれていた。
開いてみると、イエス・キリストの生涯を駒割りにして描いた絵本である。
ずっと通して読んで思ったことは、なぜイエス・キリストと仰るこのように立派な方が、人に責められ、苦しめられ、十字架に架からなければならなかったのかという事だった。

当時、仏教徒であった父が、なぜこの絵本を私へのクリスマスのプレゼントに選んだのかは不明だが、私がキリスト教に憧れを抱くようになった原点はこの辺りにあるように思われる。

小学生の頃は、隣に住む同級生から、近所のお寺の日曜学校に何度か誘われたが行かなかった。一方、小学校の向いに白壁のキリスト教会があって、通学の時に何度も軒下伝いに歩いたものである。

中学2年生の時に、一度近所に住む小学生時代の同級生であったY君に誘われて、プロテスタントの北1条教会の門を潜ったことがある。当時札幌で有名な小野村林蔵という牧師さんが説教をしていたが、教会が初めての私たち二人には話の内容がさっぱり分からず、最後に献金の袋が回ってきたときにはポケットのどこを探っても手持ちのお金など一円も持っておらず、もじもじしていたのだが、Y君はどうかと彼の方も振り向くと、彼も同様らしく顔を真っ赤にして私と顔を見合わせた。それで集会が終わると同時にほうほうの体で教会を飛び出し、帰路についたのだが、行きの教会とはどんな所だろうという興味にそそられた心持とはうって変った心境になって、家に着くまで二人とも一言も言葉を交わさず、黙りこくっていたのだけ覚えている。その後、教会に行くことはなかった。

広島と長崎に原子爆弾が落とされ、廃墟となった様が新聞に載った。それまで戦況が不利だとは国民に知らされていなかったが、この時ばかりははっきりと報道された。
終戦となり、アメリカの進駐軍が小樽に着き、ジープに乗って札幌にやってきた。

間もなく富貴堂という当時札幌一の書店の店頭に、新約聖書が山積みされて売られるようになった。戦後のキリスト教ブームがやって来たのである。表紙にガリラヤの湖が画かれた聖書であった。欲しいなと思ったが如何せんお金がない。何度も手に取っては戻ししていた。

そうこうする中に、真珠湾攻撃隊長の元大佐淵田美津雄氏が、私たちの札幌第二中学校に来られた。淵田氏は戦後、回心してクリスチャンになり、聖書頒布伝道で全国を巡回していたのだった。その日講堂に集まった私たちは、氏の証を聞いた後、ポケット型のヨハネ傳福音書を頂いた。これが私の初めて手にした聖書である。

家に帰り、早速一気に読み終えた。最後にこう書かれていた。
     決 心 書   (この聖句を読んで決心する人は、[   ]内に名前を書き入れなさい。)
それ神はその独り子を賜ふほどに[      ]を愛し給へり、すべて彼を信ずる[      ]の亡びずして永遠の生命を得んためなり。
この時は、自分の名前を記入することができなかった。何か重大な誓いを神にするようで、心が決まらなかったのである。

私は、自分の代になったらクリスチャンになろうと考えていた。それは何のしがらみもなくなった60歳位であろうと・・・。ところがそれは余りにも早くやってきた。

数年後に、救われた教会で、何らの躊躇いもなく、「決心者カード」に名前を記す日が来るのである。

『 神は、世の創の前より我等をキリストの中に選び、御意のままにイエス・キリストに由り愛をもて己が子となさんことを定め給へり 』   -エペソ書1:4,5-

 
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2011.07.18 / Top↑

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