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ウズベキスタンへ伝道

2016年8月23日から31日までウズベキスタンのタシケントへ伝道に行きました。

※ 工事中
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2017.02.08 / Top↑
ハバロ・カムチャッキー・ウラジオ・ナオトカ伝道

始 め に

1997年7月31日から8月17日まで、極東ロシアの4都市で伝道を行ないました。

先ず、副牧師が単身で7月31日に出発し、ハバロフスクとペテロパブロフスク・カムチャッキーに伝道し、8月10日にウラジオストックに戻り、この時点で牧師が出発して合流し、ウラジオストックとナオトカで伝道して、帰国するというスケジュールでした。

この伝道の資金には、4月27日に96歳で天に召された父榮蔵兄弟の遺産を兄弟で等分して分け合い、与えられた分をもって充てたのです。 この時は一旦、6月に行われた北海道大聖会の費用として用い、その後、ロシア人伝道のために用いたのです。

父は1920年(大正9年)、20歳で徴兵され、北海道の第7師団に属して軍務に就きましたが、初年兵として派遣されたのは、小樽から船に乗り、アムール川の河口に近いニコラエフスクでの対バルチザン作戦でした。 軍務に関わる事は話しませんでしたが、いつも思い出として話したのは、乗っていた船がアムール川で座礁し、動けなくなっていたところ、どこからともなく人が次々現れて「エイコーラ、エイコーラ・・・」とボルガの舟歌よろしく船を曳いてくれて助けてくれたのだと・・・。それまではロシア人は露助と思っていたが、とても良い人たちだったので見直したと・・・。ロシア人伝道をすることは自分にとっては、その恩返しでもあると思うと言って、私たちのロシア人伝道のために祈り、応援してくれました。それで、折も折、父の遺産をロシア人伝道にのために献げることは、主の御心に適い、逝きし天の父も喜んでくれると思ったのです。


◎ ハバロフスク伝道

この伝道の最初にハバロフスクに導かれたのは、この地の出身者である船員方が小樽港で救われたことと、時代は違いますが父の思いでを彷彿とさせるアムール川に面した街であることでもありました。ハバロフスクではAMETYSTホテルに宿をとり、飛行機の都合で行き帰りとも2日間の伝道でしたが、前年に救われたサムチェンコ兄弟やキス兄弟にホテルで会ったり、アムール川で3人が水と霊を受けました。

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             アムール川で兄弟方が洗礼を受けた


◎ ペテロパブロフスク・カムチャッキー伝道

8月3日は、ハバロフスクからオホーツク海の上空を3時間余りで横断し、カムチャッカ州の州都ペテロパブロフスク・カムチャッキーに移動しました。ここから小樽港に船が来ていて、救われた船員が大勢います。AVACHAホテルに宿をとり、ここでソローミン兄弟やパティレィエク兄弟とご家族、コボロィ兄弟と奥様、韓国系のパク姉妹、イオノバ姉妹、ブラセンコ兄弟など10名程の人たちと再会しました。またイワノフ兄弟がアワチャ湾で洗礼を受けたほか、3名の姉妹方が聖霊を受けました。

ここから小樽に来て救われたのち、車の水難事故で亡くなられた兄弟がいて、その母親と文通が続き、洗礼を受けるように勧めていましたが、出発の直前になってから、日本からあれこれ持ってきて欲しいとか、ロシア正教から離れられないとか本心を吐露しました。水と霊の福音伝道の目的から外れるので断りました。主が選んでいない人だったと思います。自宅を訪問し、会って救いを勧めましたが、結局救いに与りませんでした。伝道には良いことばかりあるとは限りません。でもこのことがあってカムチャッカに伝道に行けたのですから、神の許しの中にあったのだと思います。

8日にハバロフスクに戻り、再びAMETYSTホテルに入りました。翌日、連絡を取っていたイワレモフ兄弟が息子のアンドレー兄弟を連れてきたので、ウスリー川(アムール川の支流)で洗礼をしました。

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                  カムチャッカの兄弟、姉妹方


◎ ナオトカ伝道

10日は、牧師が札幌を発って、新潟経由でウラジオストックに入り、一足早く到着した副牧師と合流しました。ホテル・ウラジオストックに投宿しました。今回は、前回のタブンシーコフ兄弟には都合で会えず、新しい導きの下に進むことにし、翌日はビザをとっていたナオトカに2泊で行きました。ホテルがロマンさんという運転手付きのすばらしい車を用意してくれました。ナオトカへの国道は舗装したばかりで、対向車も殆どないので、ロマンさんは上機嫌でかなりのスピードが出ていました。

ナホトカでは、ニハイチック兄弟が訪ねてきて、自宅に案内してくれました。ここで母親に会い、聖霊を受けました。それから、友人のオズラズツォブ兄弟を紹介してくれました。水と霊の福音を話しました。すると、「ナオトカの市内案内をしましょう。それから、港付近の海ではなく、自分が知っている綺麗な海岸で洗礼を受けます」と言われるので、凡てお任せし、彼の車に乗りました。

港めぐりをしたり、あちらこちら見物したのですが、日本人墓地を案内してくれました。ナオトカは戦後、日本軍がシベリヤに抑留されたのち、舞鶴へ帰還する際に用いられた港です。酷寒のシベリヤで過酷な労働をさせられ、ここまで辿り着きながら、帰国を目前にして亡くなった人たちがこの墓地に葬られているのです。さぞ、無念だったろうなと思いを馳せました。今となっては身代わり洗礼以外に救いの道は残されていませんが、これほど多くの墓がここに在るとは、日本の殆どの人は知らないでしょう。暫し祈り心になりました。 今は互いに行き来できる時代になり、家の壁に「小樽、舞鶴、敦賀は、姉妹都市」と書かれた文字もありました。

市内を一通り巡ってから、目指す洗礼式場となる海岸へ行きました。そこは市街から遠く離れたブラート(兄弟)山とシストラー(姉妹)山との間を通って着いた砂浜の海岸でした。しかも遠浅です。夏なのに人はいません。目の前の海には2つの巨岩が立っています。正に絶景です。オズラズツォブ兄弟がここで洗礼を受けたいと言った意味が分かりました。福牧師とオズラズツォブ兄弟は海に入り、主イエス・キリストの御名によって水のバプテスマが為され、聖霊のバプテスマも受けました。ハレルヤ!(この写真は教会のホームページに用いています。)

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                   ナオトカの海で洗礼式 

ナオトカでは、ホテルの窓越しに教会が見え、いつもその側を通るので、訪ねてみました。若い牧師の案内で入ってみるとロシア正教とは違う感じなので尋ねると、バプテスト教会だと云うことでした。でも、扉も窓もみなステンドグラスがはめ込まれ、壁は聖画で埋め尽くされ、飾り立てていました。一見して、イコンのあるロシア正教会とは違うけれども、ここにも聖画はこんなにありますよ、と信者の心を繋ぎ止めているような感じを受けました。 「神は霊なり」とは、聖書の教えるところであって、教会には偶像は一切置かないのが本当ですが、ロシア正教では、ローマ・カトリックのように像を作って拝みはしない代わりに、聖画を拝しているのですから、50歩、100歩だと思いました。 この牧師には、日本から来た訳と、水と霊の福音を片言ながら伝えました。


◎ ウラジオストック伝道

2日間のナオトカ滞在を終えて、13日の夜にはウラジオストックに戻り、ウラジオストックホテルに入りました。
前もって日本からはがきを送ってあるりましたが、改めてホテルから電話をかけて連絡をとりました。思い通り願い通りにはなりませんでしたが、17日の帰国日までに6人の兄弟方が尋ねてきましたし、また自宅に訪問することもできました。会った方々はアレキシー兄弟、ボリシェンコ兄弟、ツエルイコ兄弟、キルサノフ兄弟、スコラパド兄弟、チュウプリン兄弟(代りに奥さんが)、アサノフ兄弟などです。スコラパド兄弟は、9歳の娘のリューボビちゃんと、生後4ヵ月のサーシャちゃんを連れてきて、海で洗礼式を行いました。

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             ウラジオストックの兄弟姉妹方

終 わ り に

これら極東ロシア4ヵ所を巡っての伝道で救われた人は、水と霊7名、洗礼だけ1名、聖霊だけ4名、再会した人たちは18名、合わせて30名の方々に主イエス:キリストの福音を伝えることができました。

8月17日に帰国し、新潟に到着しました。副牧師は、そこから帰札し、教会で23日の安息日礼拝と、24日の日曜聖会で伝道の証をしました。 一方、牧師は、他所を廻って後、8月21日~から24日まで広島県因島で開かれた瀬戸内海大聖会に出席して、このたびのロシア伝道の証をいたしました。共に主に用いられて感謝でした。 ハレルヤ!

2015.07.16 / Top↑
 ウラジオストック伝道


1996年の9月5日から13日まで、副牧師と一緒に初めてウラジオストックへ伝道に行きました。愈々ロシア大陸への伝道です。

きっかけは、小樽へロシア人伝道に行った時に船員のタブンシーコフ・ワレリー兄弟に遇い、教会に連れてきて聖霊待望をし、洗礼を受けたことに由ります。ワレリー兄弟は英語が上手で、私たちがウラジオストックに伝道に行きたいと話をすると、それならビザの取得の手伝いをしましょうと言ってくれました。

そこでお祈りした上でお願いすると、ワレリー兄弟は役所を回って書類をまとめ、私たちの許に送って下さいました。これでウラジオストックに行く道が開けたとので感謝しました。監督村井スワ先生にお知らせをし、お祈りして頂き、早速、旅行社に行って手続きをしました。ルートは国内線で新潟へ全日空便で行き、新潟からアエロフロート航空でウラジオストックに飛び、ホテルはガスチーニッツア・ウラジオストックにとりました。 当時は、まだロシアに行く人は少なくて、航空運賃も高かったのですが、伝道に行ける喜びで一杯でした。

空港のターミナルに入り、入国手続きを済ませ、荷物を受け取り出口へ行くとワレリー兄弟が迎えてくれ、再会の喜びで固い握手を交わしました。そして自家用車でホテルに連れて行ってくれました。途中の景色や街並みを見て、ロシアに来たのだなと思いました。中心街は3階くらいのヨーロッパ風のビルが立ち並び、住宅街は5,6階建の旧ソビエト時代の国営アパートがずらりと建っていました。

      File0131.jpg  ウラジオストック空港

      File0088.jpg  ウラジオストック駅

ホテルに入って手続きをし、1週間分の宿泊代を前払いしたが、結構高額で短期はともかく長期の宿泊は無理かなと思いました。強行軍で来たのでお腹が空いてたまりません。時間も大分過ぎていてレストランがはどこにあるのかわからず、ワレリー兄弟が「水餃子ならあると言っています」と言うので頼みました。間もなく出てきたののは、壺のような形をした瀬戸物に文字通り水と十数個の丸い小さな餃子が入った単品でした。つけダレはありません。これをスプーンで掬って口に運ぶのです。 後日ワレリー兄弟の家に招かれて奥様が腕を振るった美味しいロシア料理を頂いたのですが、ウラジオストック伝道を思い出すごとに、最初に食べた「水餃子」のことが思い浮かびます。

翌6日は、95年7月に小樽で救われたアクベルジン・リュードミラ姉妹の家に招かれました。姉妹の神癒祈祷をしい、息子のデニス兄弟の聖霊待望をしました。その後姉妹は市内見物に行きましょうと港に案内してくれました。ホテルに戻ると92年10月に救われたアルカジー兄弟が尋ねてきました。これらの人たちには日本から訪問計画をはがきで知らせておいたのです。

3日目は安息日礼拝をホテルの部屋で行いました。ドミトリ兄弟が息子を連れてこられ、4人で礼拝をしたあと、自宅に招かれました。午後は、ホテルの近くのサクラ・モーリエで海岸伝道をし、二人の兄弟方に水と霊を施しました。帰り道でロシア語の聖書を買いました。

      File0130.jpg サクラ・モーリエ 

      File0123.jpg 洗礼式

4日目は、港の対岸へ湾岸沿いに行きました。行きはタクシーで、帰りはフェリーに乗りました。通勤に使われている大きな渡し船の感じです。(今はこれに代わって、立派な橋が架けられています)。舟を降りてバクザール(市場)やウラジオストック駅、郵便局などを回って、アエロフロートの支店で帰りの便の予約をしました。この時、窓口で何と言おうかと予めロシア語で文章を作っておいたのですが、いざとなるともたついて上手くロシア語が出てきません。するとすぐ後ろのロシア人が流暢な日本語で話しかけてきたのでびっくりしました。そして窓口の係り員に通訳をしてくれたのです。正に神様の助けだ!と思い感謝しました。スパシーバ!

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                    ウラジオストック港のビューポイントから
 
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                     対岸からのフェリー船上で

5日目は訪ねてくる人がいなくて、ホテルで祈っていました。伝道にはこういう日もあります。

6日目は、ナオトカに行く国道の途中にあるボリショイ・カーメンに行きました。ここから小樽に来ている船もあるのです。ホテルで運転手付きの車をチャーターし、田園風景を眺めながら走りました。1時間余でボリショイ・カーメンの市内に入り、着いた所は税関でした。

車を降りて歩いていると、中から婦人警官が現れ、署長室に連れて行かれました。不審者と思われたらしく、「どこから何の目的で来たのか」と問われ、パスポートとビザの提示を求めれました。どうやら書類上ここに来ることは許可されていないようでした。話が難しくなってきたので「そこにロシア人の運転手がいるから聞いてほしい」言いました。婦人警官と運転手が話し合って話が付いたようです。互いに「ダスビダーニア」(さようなら)と挨拶を交わしました。伝道することが許可されたのです。ハラショー(すばらしい)! 再び車に乗り、数隻の船が停泊している埠頭にいって伝道することができました。日帰りでウラジオストックに戻り、夜はアンドレー兄弟の家に行きました。

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            ボリショイ・カーメン市内

7日目はサクラ・モーリエで伝道し5人の兄弟が聖霊と洗礼を受け、感謝でした。その夜、ワレリー兄弟の家に招かれ、奥さんのターニア、お子さんのスビエータ、サーシャ、友人のビクトル兄弟、ラリーサ姉妹とお子さん方が集い、霊讃歌30番をロシア語(私訳)で歌い、お祈りをし、聖霊待望会をしました。ワレリー兄弟は「私の教会は、札幌です。朝晩ハレルヤとお祈りしています」と言いました。

そして8日目ワレリー兄弟が空港まで送ってくださり、ウラジオストック航空で新潟に戻り、一泊して帰宅しました。

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               ワレリー兄弟(右)ご一家と友人たち

次回は、ナオトカにも行きたいと思うことと、予め連絡を取ることが必要と思いました。



2015.06.17 / Top↑
 サハリン伝道 

小樽港での伝道が進むにつれて、実際に彼の地へ渡って伝道をしようという機運が起きてきました。

どこへ行こうか? 導かれたのは最も手近な所、北海道の北隣の「サハリン」でした。戦前、戦中まで「樺太」と呼んでいた日本の領土でした。多数の日本人が住んでいたのは周知の事実です。 今は、ロシア領になり、ペレストロイカ以降、日本にロシアの漁船が海産物を積んで来るようになりました。

         サハリン

第1回 の「サハリン伝道」は、副牧師二人によって、平成5年(1993年)8月4~8日に行なわれました。
J旅行社のツアーに参加して稚内から船便でコルサコフ(大泊)に渡り、ユジノサハリンスク(豊原)にホテルを取って伝道したのです。

この伝道で水と霊とのバプテスマを受けて救われたのは、男性12人、女性5人、計17人。 それに道央教会の信者であるK姉妹の親戚で、残留日本人の男性1人、女性1人、計2人が聖霊だけを受けました。(6年後に2人とも亡くなったので、K姉妹が身代わり洗礼を受けました。) 合わせて19人の救いがあったので、副牧師たちは喜んで帰り、私たちも皆主のお働きに感謝を致しました。

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               サハリンの玄関、コルサコフ港(大泊)

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              ユジノサハリンスク(豊原)で洗礼式

翌平成6年の 第2回 サハリン伝道は、副牧師1人が結婚して他所へ行ったので、此度は、もう1人の副牧師による単独での伝道となりました。期間は8月2~10日の9日間で、前年同様ユジノサハリンスクを中心に伝道し、西海岸の港ホルムスク(真岡)にも伝道をしました。そして小樽で救われた韓国系ロシア人のM姉妹に出会いましたが、姉妹は通訳を業としている人だったので大いに主に用いられたのです。 また前年ユジノサハリンスクで救われた子供たちも伝道に協力してくれました。 副牧師が荷物から離れて洗礼を施している間にカメラが置き引きに遭いましったが、子どもたちが目敏く犯人を目撃していたので警察に通報して取り戻してくれもしました。 この伝道では、男性37人、女性15人、合わせて52人が水と霊を受けて救われました。 またロシア正教の人も主イエス・キリストの名による真の洗礼を受けたのです。

更に次の年、平成7年8月1~11日に 第3回 サハリン伝道に副牧師が単身遣わされ、ユジノサハリンスク、コルサコフ、ホルムスクを巡って海や川やプールで洗礼式を行い、34人が救われました。(男性21人、女性9人、他に男女それぞれ2人が受霊した。)

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             第4回サハリン伝道参加者(トゥナイチャ湖で)

その後、しばらく中断しましたが、再び行こうという話が起きてく 第4回 サハリン伝道は、9年振りに平成16年6月30日~7月13日の2週間に亘って行われました。この時は、道央教会のT兄弟と、東京教会のN兄弟が参加し、副牧師と3人での伝道となりました。サハリンでは、第2回のとき通訳して下さった韓国系ロシア人のM姉妹も合流しました。毎日のように救いがなされ、 水と霊:男性7人、女性4人。聖霊のみ:男性4人、女性4人。洗礼のみ:男性2人、女性2人。合計23人でした。 T兄弟が記録を取り、N兄弟が写真を担当したので,立派な証集ができました。感謝です。ハレルヤ!

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                           第4回サハリン伝道

2015.05.12 / Top↑
 ロシア人伝道

1992年(平成4年)の春頃から、北海道に住む私たちにとって身近な隣国であるロシアの人たちのことが気になり始め、御霊によって祈らされていた。

その少し前からソビエト連邦では、政治体制の改革運動がおこった。ペレストロイカ(立て直し)である。1985年に共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが提唱し、実践したものである。そして、1991年にはソ連邦が解体し、ロシアをはじめ、15共和国家が出現した。

自由化の波が押し寄せたかのように、北海道の港に続々とロシアの船がやってきた。サハリンやウラジオストック、ナオトカ、更にはカムチャッカなどから、蟹やうに、木材を積んでやって来て、帰りには日本の中古車をこぼれんばかりに積んでいく民間船による貿易が始まった。

そういう人たちが来ていることは新聞、テレビで取り上げられ、しばしば耳にしていたのである。

事が始まったのは、こうである。

1992年の8月に、広島県因島の内海イエス之御霊教会で開かれた瀬戸内海大聖会に、道央教会から3名出席したのだが、この時参加したN姉妹に東京教会のある姉妹が「東京では、外国から来た船員さん方に伝道して、沢山救われていますよ。北海道でも小樽の港などにロシアの船員さん方がきていると思いますが、伝道していますか」と尋ねられたので、「していません」と答えると、「伝道したら良いですよ」と言われたというのである。
 
これで、火が付いた。帰ってきてから「うちの教会でも伝道しましょう」ということになった。でもロシア語は全く分からないし、どこから手をつけたら良いかもわからない。

すると、旭川から高速バスで教会に通っていたS姉妹が、これを聞き、旭川駅前の書店でロシア語の辞典を見つけて買ってきた。これを元にして、キリスト、神、教会、洗礼、聖霊、救いなど、伝道に関係する単語を選び出し、発音など分からないので、ロシア人にその文字を読んでもらうことにして、8月31日に副牧師2人と信者2人が1台の車に乗って小樽港に出かけたのである。

港に到着して、埠頭にいるロシア人に声をかけ、辞典を開いてその文字を見せると、読んで「ダー」(いいよ)と洗礼を受ける意志表示をしてくれた。その数6人であった。車は1台きりなので、タクシーを呼び、小樽の地理に詳しい運転手に、洗礼ができる海に連れて行ってくれるように頼むと、東小樽の海岸へ乗せて行ってくれた。そこは、海水浴ができるところであった。その日、ハバロフスク州のソビエッカヤ・ガーバニーから来たタビチヤ号の機関長始め6名の船員が、小樽でのロシア人伝道の初穂として水と霊のバプテスマを受けたのである。

伝道に行った4人は大喜びで帰ってきて、翌日も行くことになった。辞典の文字を綴り合せ「海へ行って洗礼を受けませんか」と短い文章にして紙に書き、これを見せて読んでもらうことにして、車2台で4人で出かけていった。すると、神様が働いてくださり、サハリンのポロナイスクや沿海州のナホトカから来た船員方が21人救われた。船長自らマイクを持って船内放送(洗礼を受けるように勧めてくれたのであろう)をすると、中からぞろぞろと船員方が出てきたので、海へ連れて行き、そこで聖霊待望会をし、主イエス・キリストの名によって洗礼をしたのであった。

こうして、小樽港に行くたびに水と霊が行われ、9月には100名ものロシア人が救いに与り、更に11月、12月と冬に向かう小樽の海岸で水と霊の全き救いが行われ、この年は46回、252名がイエス様によって救われたのである。

つたないロシア語の文書も、ロシアの船員方が 「ここは、こう書いたら良いよ」 という風に手直しをしてくださり、今も用いられている。

スパシーバ ありがとう!

「全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣伝へよ。信じてバプテスマを受くる者は救はるべし」 マルコ伝16:15、16

        File0114.jpg 小樽でロシア船

       File0110.jpg 小樽・祝津港

 
2015.03.24 / Top↑

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